7.パンプアップの謎
マウント斗羽は、普段はガリガリに痩せて肋骨が浮いていますが、両手を合わせてヒンズースクワットを始めると全身の筋肉がパンプアップして、筋骨隆々となります。
愚地独歩曰く「筋肉の一部に血液を流入させて強度とサイズを向上させるのがパンプアップだが…人間の躰全体がパンプするのは、私も初めてお目にかかる。よほどケタ外れの心臓を持っているのだろう…」
筋肉に血液が流入してサイズが大きくなるのはわかるのですが、人間の躰全体がパンプするということは、体中の筋肉全部に大量の血液が流入することになります。そうすると、その前までその血液は体内のどこにあったのでしょうか?
腕とか胸の筋肉だけならともかく、全身の筋肉に大量の血液が流入するのですから、そのままでは躰の他の部分、脳や肝臓に血液が回らなくなり、斗羽は脳貧血で倒れてしまうはずです。
そこで考えられることは、まず斗羽はパンプアップの前に大量の水分を補給していたのではないか、ということです。私(筆者杉山)は年に3回いつも献血をしていますが、400cc血を抜いた後は、必ずジュースなどで充分に水分を補給するように言われます。つまり血液の“量の不足”だけならば、水分を捕球することで短時間で補うことができるのです。
斗羽は、ヒンズースクワットをする前に飲料水(炭酸抜きコーラとか)を大量に飲んでいたのでしょう。この時、少量のアルコールを加えると吸収が早くなります。筋肉が温まるにつれてパンプアップがおきますが、不足した血液は胃や腸から吸収される水分で補われていくのです。
しかし、そうなるとその分血液は薄くなってしまいます。単位体積中の赤血球の量が減り、酸素の運搬能力が下がってしまいます。斗羽は刃牙との闘いの時、後ろ飛び廻し蹴りやらスープレックやら、タイガーマスクばりの激しく素早い動きをしますが、薄い血液ではとてもこんな動きはできません。すぐに息切れをしてしまうことでしょう。
そこでさらに考えられるのは、斗羽は地下闘技場での試合の時には、事前に赤血球量を増やす処置を受けていたのではないか、ということです。
“エリスロポエチン”というホルモンがあります。腎臓で作られ、血液中の赤血球の数を増やす指示を出す造血ホルモンです。
斗羽がこのエリスロポエチンを格闘技の試合前に使用していたとすれば、“全身パンプアップ”をしながら貧血を起こさない理由も納得できます。
ああっ、そうかっ! 私は前々から、いざとなればあんなにスピーディーな動きができる斗羽が、普段のプロレスの試合では、どうしてあんな超スローモーな動きしかできないのか不思議に思っていました。その理由が、今わかりましたッ。
斗羽は、普段の試合では健康上有害ですから、エリスロポエチンは使用しません。大量の水分補給もしないでしょう。
もし斗羽がリング上で激しい動きをし、筋肉が温まり心臓の鼓動も激しくなると、筋肉のパンプアップが始まってしまいます。すると、脳に血液が回らなくなり、斗羽は脳貧血で倒れてしまうのです。
ユーリカ!
ユーリカ!
ユーリカ!
しかしその一方、エリスロポエチンには重大な副作用もあります。それは……。
1990年2月、自動車ロードレースのオランダ代表ヨハネス・ドライハー(26)が心臓疾患により突然死しました。精密検査でも何ら異常は発見されていなかったにもかかわらずです。コニー・メイヤーの場合には、1988年8月のレース途中で棄権。意識を失って病院に運ばれた後にこちらも死亡しました。このような、自動車ロードレース選手の怪死事件は4年間で18人に及び、ほとんどの原因は心臓疾患だったとのことです。
エリスロポエチンは貧血の治療薬ですが、自転車競技やマラソンの選手が持久力をアップさせる目的で、密かに使用している場合があるようです。
しかし、健康な人がエリスロポエチンを使用すると、赤血球が増え過ぎて血栓が出来やすくなり、心筋梗塞などの心臓疾患の原因になります。長時間の運動で汗を大量にかいた場合、血液が濃縮されて更に心疾患を起こす危険性が高くなります。
さて、猪狩との試合中に倒れ、病院に運ばれた斗羽ですが、これが仮病でなかったとするならば、斗羽は発作的な急病によって失神したのではないでしょうか?
馬場と同じように直腸ガン……ということも考えられますが、直前までニコニコして、32文ロケット砲ができるほどに体調も絶好調、元気に大暴れしていたのです。高熱があったようにも顔色が悪かったようにも思われません。
ということは、斗羽の病気とは、実は突然の心臓発作だったのではないでしょうか?
斗羽は、猪狩といわゆる“シュートマッチ”をしようと考えていたと思われます。それに備え、エリスロポエチンで赤血球数を増やし、大量の水分を取っていたのでしょう。猪狩との試合直前に、例の“ヒンズースクワット”で全身のパンプアップをして闘うつもりでした。
ところが、アルバイト少年の「バケツひっくり返し」によって1時間以上も試合開始時間を延ばされてしまいました。となると斗羽が大量に摂取していた水分も、とうに尿になり、トイレで流してしまったことでしょう。
そして、シュートマッチのはずが普通の“キレイでていねいなプロレス”をやることになってしまいました。ヒンズースクワットはやらず、全身のパンプアップをせずに試合をすることになりました。それがどんなに危険なことであるか意識せずに……。
激しい攻め技の応酬で、斗羽は全身に汗をかきます。体内の水分が失われ、血液中の赤血球数がますます濃くなっていきます。そして……猪狩の卍固めッ。これがまずかった。頚の血管を猪狩の右脚で圧迫されたことで、血栓ができやすくなってしまったのではないでしょうか。左腕を捩じ上げられて左胸が圧迫されたのも危ない。その結果……斗羽は心臓の血管に血栓がつまり、心臓疾患を起こしてしまったのではないでしょうか。
独歩は「人間の躰全体がパンプするのは私も初めてお目にかかる。よほどケタ外れの心臓を持っているのだろう」と言っています。逆に言えば、全身パンプアップはケタ外れに心臓に負担がかかる、ということです。
巨人レスラーの寿命が短いのは、腰や膝の負担だけの問題ではありません。巨体の全身すみずみまで血液を行き渡らせるには、ただでさえ心臓に負担がかかります。アンドレ・ザ・ジャイアントの夭折も心臓疾患でした。長年のリング生活で、斗羽の心臓はすでにボロボロになっていたのではないでしょうか。
それに加え、最大トーナメント出場のために斗羽は猛特訓を積んだことでしょう。それがさらに心臓に負担をかけた……。
病院に運ばれ、緊急手術を受けた斗羽はなんとか命をとりとめましたが、プロレスは二度とできない体になってしまいました。担当医の久保医師の「残念です」という言葉は、このことを言っていたのでしょう。
斗羽は病室で猪狩に宛てた遺言状を、元子夫人の口述筆記で作りました。
そして、もはやリングには立てない以上、残りの人生は好きな絵を描いて暮らそう……そう考えた斗羽は、自分の「死」を演出して密かにフランスに渡った ── これが真相なのではないでしょうか。